こんにちは!

ホームページの引越しをしています。
ウィンドウズ95でyahooの非商用趣味のページで登録してもらって、それっぽく始めた思い出、ADSLで写真がやたら小さくて、もはや原版がないとか・・・ でも、残したかったり。
見やすい構成目指して、3か月くらいで移行しようと予定してます。 とりあえず今は、古文書発掘のリメイクだけど、でも、懐かしいです。 諸々改めたり、またあたらしいページも追加してゆきます。
よろしくお願いします。

穂高岳の山祠(山名由来)

安曇野 穂高神社

豊葦原中津国の中央に嶺高く聳える山里がありここに瑞穂の国を築かんと大和朝廷は伊弉諾尊より生じた海神、綿津見神の子、宇都志日金拆命を祖神とする安曇の連に東夷平定を命じた。 初期の大和朝廷の東征は戦であるより弥生文化の伝搬つまり鉄器や土器、農耕、官位采配、税制や権威、宗教の浸透であることも多い。 この拓かれた瑞穂の地は後に安曇野と呼ばれる。 安曇野の西方の高き嶺々のさらに奥には里から見えない人跡未踏の岳の連なりがある。 これを瑞穂の国の民は神々の高天としていつしかこの隠された連山を穂高と呼ぶようになった。 この間に安曇族によって祀られた祖神、宇都志日金拆命はこの安曇野の地に於いて穂高見の神の名を持ち新撰姓氏録815年に安曇の連の祖として記され、延喜式神名帳927年に穂高神社として明神大社とされた。 また日本三代実録859年に神名、宝宅神と記されるが安曇族は801年大和朝廷の蝦夷平定の時に没落しているので何らかの齟齬があったかと思われる。 これをもって信濃の安曇族は謎の中に消えたが安曇野には瑞穂の地と菊の御紋を持つ穂高神社が残った。 穂高の地名を神名との時系列で推論し整理してみた。

2014年7月28日 西穂から槍の縦走中のジャンの登りより 明神岳上に八龍の彩雲の瑞兆

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八ケ岳の山名由来

虎姫新道のこと

阿弥陀岳から御古屋尾根を下り御小屋山から舟山十字路に向かう時、注意を要するポイントに虎姫新道と言うのがある。御小屋尾根から広河原林道、舟山十字路へ向かうには地図に虎尾神社と記載のある尾根へトラバースする道だ。確か私が行者小屋、小屋番だった当事、知人がこの辺のガイドブック作成をしていた際の略図作成の折だったと思うが、「御小屋尾根の下のほうに虎尾神社というのがあるんだが、これがどっから出てきた名前かわかわからないんで、尾根からこの間の名称を虎姫新道にしとこうと思うが、おまえらなんかここらの名前聞いたことあるか?」という相談を受けたことがあった。当時の私には地元の山岳信仰などわかる由も無く、普段から登山道整備などをしている地元の山岳会などで通用している名称が一般化するのがとうぜんなんじゃないか?と感想を述べたのを思い出した。確か原村の先輩、大河原ヒュッテの故田中光彦氏だったように思う。 長く諏訪地区遭対協の隊長を務めておられたが、私にとっては原村には希少な山というよりはどちらかといえば酒飲みで世話になった優しい先輩だった。

ちなみに阿弥陀岳から下って御小屋尾根上の虎姫新道ジャンクションを直進すると諏訪大社御柱切り出しの際に祭場となる御小屋神社がすえられた社有林にでる。このあたりの感じが中央稜出口あたりと気配が似ていて阿弥陀岳から吹雪で中央稜に入りそこなって御小屋尾根を下った時など、道が埋まるほどの積雪があれば、特にその辺りと勘違いしやすく、間違い易いポイントかなと思う。虎姫新道ジャンクション付近は、直進する美濃戸口方面への塚道への目印も多いので、気配だけじゃなくて地図と高度計でナビゲーションするべきところだ。塚道というのはこの地域の財産区の境界線で毎年、地権者の人たちによって毎年区界改めという巡回を行い、目印の杭を打って回っている道のことだ。

そういえば話は唐突に変わってしまうけれど、御小屋山頂上付近にある巨大な塚からは美濃戸へ向かって下る塚道がある。御小屋尾根は地図上では御小屋山先の分岐で美濃戸口か舟山十字路に下る道に分かれるが、赤岳山荘に車を置いた場合など、この塚道を下山に利用すると便利になる。この事を紹介した2人の先輩の名前にちなんで池守新道と呼ばれている。

さらに話は外れてしまうけれど、というよりもはや35年ほど前のことになるが、思い起こせば、登山を覚えて数年目の10代だった私は当時赤岳鉱泉小屋番だった山の師匠と、学林(現太陽館周辺)から阿弥陀岳南稜を目指したことがあった。当時の学林~舟山十字路への道はまず、登山道といえるほどの道ではないところを進む。目印は一杯あるのだがどういうわけか南稜そのものすら見つからない。走行するうちに、なにやら石碑の一杯あるところを超えてさらに徘徊し、予定とは違う原野の中でビバークして翌日は天気も悪いので敗退となった。 その時の私はといえば地図すら持たず、コース概略の予備知識も阿弥陀岳頂上から見てあの辺からこう来てこうだな、とめぼしを付けていた程度だった。あの時は、この虎姫新道下のコースを逆行し、さらに上部に向かって道をはずしたことになるのだろう。

赤岳開山の時代

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