ホームページの引越しをしています。
ウィンドウズ95でyahooの非商用趣味のページで登録してもらって、それっぽく始めた思い出、ADSLで写真がやたら小さくて、もはや原版がないとか・・・ でも、残したかったり。
見やすい構成目指して、3か月くらいで移行しようと予定してます。 とりあえず今は、古文書発掘のリメイクだけど、でも、懐かしいです。 諸々改めたり、またあたらしいページも追加してゆきます。
よろしくお願いします。
冬山入門・赤岳
阿弥陀岳南陵
阿弥陀岳南陵は賑わう美濃戸口の南、立つ場川広河原沢の船山十字路から入る、長くて静かな好ルート。 テント泊も良いけど、最近はラッセルで時間を喰うことも少ないので、日帰りが、ちょっと長めのバリエーションのトレーニングに最適。
尾根入口、立つ場側と広河原側どちらからでも上がれる。広河原から。 “阿弥陀岳南陵” の続きを読む
横岳縦走
赤岳で、冬山入門を終えたら次はもう横岳縦走。
ガイド登山なればこそです。
硫黄岳も赤岳も既に登っていますので、大同心稜から登りました。
お客様にラッセルさせてんじゃなくて、小同心バックに記念写真撮ってんだからね?
八ケ岳の山名由来
虎姫新道のこと
阿弥陀岳から御古屋尾根を下り御小屋山から舟山十字路に向かう時、注意を要するポイントに虎姫新道と言うのがある。御小屋尾根から広河原林道、舟山十字路へ向かうには地図に虎尾神社と記載のある尾根へトラバースする道だ。確か私が行者小屋、小屋番だった当事、知人がこの辺のガイドブック作成をしていた際の略図作成の折だったと思うが、「御小屋尾根の下のほうに虎尾神社というのがあるんだが、これがどっから出てきた名前かわかわからないんで、尾根からこの間の名称を虎姫新道にしとこうと思うが、おまえらなんかここらの名前聞いたことあるか?」という相談を受けたことがあった。当時の私には地元の山岳信仰などわかる由も無く、普段から登山道整備などをしている地元の山岳会などで通用している名称が一般化するのがとうぜんなんじゃないか?と感想を述べたのを思い出した。確か原村の先輩、大河原ヒュッテの故田中光彦氏だったように思う。 長く諏訪地区遭対協の隊長を務めておられたが、私にとっては原村には希少な山というよりはどちらかといえば酒飲みで世話になった優しい先輩だった。
ちなみに阿弥陀岳から下って御小屋尾根上の虎姫新道ジャンクションを直進すると諏訪大社御柱切り出しの際に祭場となる御小屋神社がすえられた社有林にでる。このあたりの感じが中央稜出口あたりと気配が似ていて阿弥陀岳から吹雪で中央稜に入りそこなって御小屋尾根を下った時など、道が埋まるほどの積雪があれば、特にその辺りと勘違いしやすく、間違い易いポイントかなと思う。虎姫新道ジャンクション付近は、直進する美濃戸口方面への塚道への目印も多いので、気配だけじゃなくて地図と高度計でナビゲーションするべきところだ。塚道というのはこの地域の財産区の境界線で毎年、地権者の人たちによって毎年区界改めという巡回を行い、目印の杭を打って回っている道のことだ。
そういえば話は唐突に変わってしまうけれど、御小屋山頂上付近にある巨大な塚からは美濃戸へ向かって下る塚道がある。御小屋尾根は地図上では御小屋山先の分岐で美濃戸口か舟山十字路に下る道に分かれるが、赤岳山荘に車を置いた場合など、この塚道を下山に利用すると便利になる。この事を紹介した2人の先輩の名前にちなんで池守新道と呼ばれている。
さらに話は外れてしまうけれど、というよりもはや35年ほど前のことになるが、思い起こせば、登山を覚えて数年目の10代だった私は当時赤岳鉱泉小屋番だった山の師匠と、学林(現太陽館周辺)から阿弥陀岳南稜を目指したことがあった。当時の学林~舟山十字路への道はまず、登山道といえるほどの道ではないところを進む。目印は一杯あるのだがどういうわけか南稜そのものすら見つからない。走行するうちに、なにやら石碑の一杯あるところを超えてさらに徘徊し、予定とは違う原野の中でビバークして翌日は天気も悪いので敗退となった。 その時の私はといえば地図すら持たず、コース概略の予備知識も阿弥陀岳頂上から見てあの辺からこう来てこうだな、とめぼしを付けていた程度だった。あの時は、この虎姫新道下のコースを逆行し、さらに上部に向かって道をはずしたことになるのだろう。
赤岳開山の時代
憧憬の穂高岳・郷愁の八ヶ岳
八ヶ岳南西麓に位置する高原地帯の農村、原村の標高1000メートル付近に暮らし始めて25年ほどになる。 長野山梨県境となる高原地帯で富士見町と隣接し、甲府盆地に向かい笛吹川、富士川となる釜無川と伊那谷から天竜川に注ぐ諏訪湖の源流域で、最も広くなだらかな分水の峠を形成する高原となっている。 この原村、富士見町を囲むやまなみは南から東に壁のように連なる八ヶ岳、西には南アルプスの甲斐駒ケ岳が両翼に鳳凰三山と鋸岳を従え、信州側には冬は富士見パノラマスキー場の灯りが目立つ入笠山から諏訪の守屋山への丘陵へと続いている。
富士見峠を分水の峠と紹介したけれど、八ヶ岳西山麓における実際の分水は、八ヶ岳の登山者にもなじみの深い赤岳、阿弥陀岳の主稜線から西に延びる御小屋尾根だ。 この顕著な長い尾根の南面、権現岳キレット寄りの立場川は富士川水系、北側の横岳や硫黄岳に発する柳川は天竜川水系ということになる。 蛇足ながら山麓の富士見町、原村の高原の開拓農地は江戸時代中期以降、戦後に至るまで、これらの流れを水源に利用する為に複雑に作られた入り組んだ用水整備によって開拓されている。 ある意味では人間による、現実的分水の歴史が作った高原の開拓地となっている。
山岳写真家の先駆者でもある、田淵行男氏の作品に「浅間 八ヶ岳」という写真集が有るが、若いころ勤めていた穂高岳山荘の図書室で初めてその古い作品と出会ったとき、その時代背景もさることながら、八ヶ岳という山の持つ郷愁の趣深さに感じいったものだ。 この山麓に暮らし、折に触れて見上げる八ヶ岳の風景に、あの写真集に有った写真の撮影ポイントはこの辺かな、と思える場所と出会うことが有り、懐かしさに似た気分を新たにする。 とはいえ、新しい建造物はもちろん、広大な圃場整備された田んぼや畑の中にも電線が張り巡らされている事にはがっかりさせられる。 2020年の東京オリンピックに向けて景観地の電線を地中に埋める計画もあるそうだが、山を臨む農村の電線も日本の風景を末永く楽しむ意味で埋められないものだろうか。
良く晴れた日に中央高速道を走ると、この富士見の峠付近で上り線では富士山、下り線では槍穂高連峰が正面に見えてくる。 地名的には高速バスの富士見バス停、または中央道最高標高点の標識付近にあたる。 上り線の富士山については、ここ以降甲府までずっと正面に鎮座しているけれど、穂高岳については、諏訪湖サービスエリア付近で諏訪と木曽、安曇野を隔てる交通の要所、塩尻峠、塩嶺の山稜によって隠れてしまう。 塩嶺トンネルで峠を越えたみどり湖付近から塩尻辺りまででも穂高岳の上部は見えるのだけれど、山として眺めるには、蝶が岳から連なる前山が大きく、中腹が無い形状となるのでいささか興趣に欠けるように思う。